その三十八 「逸喜優」

 細川四郎氏は自由が丘「とよ鮨」(閉店)出身で、1981年頃に碑文谷で「逸喜優(いっきゅう)」を開店した。「いっきゅう」と店名は決めていたが「一休」は平凡なので逸く(はやく)喜んでもらって優雅にということで「逸喜優」という当て字にしたとのこと。細川四郎氏の出身の自由が丘「とよ鮨」(閉店)の芳沢孝治氏は千住「寿司栄」の小池栄之助氏の弟子で、さらにさかのぼると、1930年台に創業した芝愛宕「玉寿司」(閉店)に行き着くらしい(「江戸前にぎり こだわり日記」川路明著 1993年 朝日出版社)。

 碑文谷の「逸喜優」の暖簾分けとして二子玉川「鮨逸喜優(二子多摩川店)」と南久が原「鮨逸喜優はらだ(鵜の木店)」があるが「逸喜優はらだ」は閉店。現在は荻原龍也氏の二子玉川「逸喜優」が残る。

 「逸喜優」は台湾の台北に「野壽司」を展開。オープン時には藤永大介氏(「江戸前鮓すし通」「鮓ふじなが」)が料理長兼店長に就任。二代目の野村裕二氏は独立して2011年に台北「野村壽司」を開き、現在は三代目の佐藤隆治氏。

 細川四郎氏は2005年に銀座に「逸喜優」を移転するが、2006年にあざみ野に店を移して現在に至る。

 

  

 







 

 

  • 参考書籍

 

江戸前にぎり こだわり日記」川路明著 1993年 朝日出版社

東京生活別冊「東京のすし通になれる本」 2006年 枻出版社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その三十七 「鮨よしたけ」

 吉武正博氏は高校卒業後に「寿司田」に入社し、銀座「写楽」で修業を始めた。その後「寿司田」グループのいくつかを回り、ニューヨーク店に移動、帰国後は東陽町のすし割烹や六本木にあったベルファーレ内の「香花」に勤め、2004年、六本木七丁目に「すし吉武」として独立した。その後、2010年に銀座に移転し、「鮨よしたけ」と改名して現在に至る。2012年には香港「Sushi Shikon(すし志魂)」を開店した。

 「鮨よしたけ」出身としては、「鮨きむら」の木村浩司氏、北海道の「すし宮川」の宮川政明氏などがいる。宮川政明氏は2019年にマンダリンオリエンタル東京に「鮨心by宮川」をオープン、料理長は宇野哲也氏が務める。

 六本木の「鮨きのした」は吉武正博氏プロデュースの店で、オーナーは実業家の木下氏。板長の佐藤準一氏は都内すし店での修業歴があるが「鮨よしたけ」での経験はない。

 

(追記)2021年3月10日

 「鮨きのした」の現在の板長は中村慎亨(のりあき)氏。

 松山市「くるますし」の二代目高平康司氏は「鮨よしたけ」出身。「鮨青木」などでも修業歴があるとのこと。(当ブログの閲覧者様から情報をご提供いただきました。)

 

(追記)2021年3月23日

 六本木の星条旗通りにある「鮨きのした」で板長をしていた佐藤準一氏が2021年3月7日、新富町に「鮨忠(ただ)」を開店。

 

(追記)2023年6月2日

 銀座「よしたけ」で修業した大矢庸二氏が神楽坂に「鮨大矢」を2023年5月22日に独立開業。

  

 

 












 

 

  • 参考書籍

 

「銀座のすし」山田五郎著 文春文庫 2013年(株)文藝春秋

dancyu」2006年1月号 プレジデント社

「美味サライ」 今行くべき口福の鮨 2019年10月 小学館

 東京生活別冊「東京のすし通になれる本」 2006年 枻出版社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その三十六 「寿司田」

 「寿司田」は1951年に経営の佐田勉氏が飯田橋に創業した「房乃寿司」に始まる。その後1955年、日本橋茅場町に「寿司田」を開業、その時の板長は「三長会」の佐藤清一氏であった。現在の代表取締役社長は佐田都史夫氏で「寿司田」の他、「乾山」「写楽」「古径」などを全国に展開している。

 その「寿司田」グループ出身としては、「鮨よしたけ」の吉武正博氏や「すし金子」の金子氏などがいる。

 「すし佐竹」(閉店)の佐竹大氏も「乾山」出身。

その三 「久兵衛」 - すしの系譜

 また、全国には「寿司田」グループからの出身者は多く、青山「海味」の平公一氏も「乾山」での修業歴がある。

その三十四 「海味」 - すしの系譜

 ホテルニューオータニ大阪の「乾山」出身としては大阪「黒杉」の黒杉章宏氏などがいる。その他「写楽」「古径」からも「寿司田」グループの出身者多数。

 

 

 

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  • 参考書籍

 

「銀座のすし」山田五郎著 文春文庫 2013年(株)文藝春秋

dancyu」2006年1月号 プレジデント社

dancyu」2018年8月号 プレジデント社

東京生活別冊「東京のすし通になれる本」 2006年 枻出版社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その三十五 「小笹寿し」

 「小笹寿し」は寿平八郎氏が1950年に新橋に創業したのが始まりで、「浅草けぬきずし」で三代目親方であった藤村宗次郎氏が、初代の板長となった。1954年には、銀座8丁目の現在地に移転する。当時の「小笹寿し」にいたのが岡田周三氏である。その後、1968年に支店である「小笹寿し原宿店」を任された。岡田周三氏は、「小笹寿し原宿店」が赤坂に移転するのをきっかけに、1973年に「小笹寿し下北沢」として独立して現在に至る。岡田周三氏のもとで銀座の「小笹寿し」で修業したのが寺嶋和平氏である。

 寺嶋和平氏は銀座「小笹寿し」に1965年に入店し、岡田周三氏とともに「小笹寿し原宿店」に移り、1969年に「小笹寿し日吉店」として独立、閉店する1989年まで勤め、その後は岡田周三氏の「小笹寿し下北沢」で握っていた。本家の銀座「小笹寿し」は1982年に閉店したが、寺嶋和平氏の独立に際し、銀座「小笹寿し」が1995年に復活して現在に至る。以上については「銀座のすし」山田五郎著に詳細に書かれている。

 「小笹寿し下北沢」は現在、岡田周三氏のあと、二代目の西川勉氏が継いだ。また、銀座「小笹寿し」出身としては渋谷神泉「小笹」の佐々木茂樹氏、桜新町「喜与し」(閉店)の根津秀俊氏がいる。新しいところでは、西麻布「小笹すし」(閉店)の新垣正次氏、築地「鮨もりなり」の岡崎守成氏が銀座「小笹寿し」の出身。

 

(追記)2021年1月5日

 「鮨小山」の小山氏は神泉「小笹」の出身とのこと。2009年に八王子で独立開業した。

 (当ブログの閲覧者様から情報をご提供いただきました。)

 

(追記)2021年1月5日

 札幌「○鮨(まる鮨)」の二代目川崎純之亮氏は父・川崎武司氏の紹介で銀座「小笹寿し」で5年間修業。その後、父の店である「○鮨」に戻り、2016年1月より父から店を引き継いだ。

 

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  • 参考書籍

 

「銀座のすし」山田五郎著 文春文庫 2013年(株)文藝春秋

 

  

 

 

 

 

 

 

 

その三十四 「海味」

 青山「海味」の初代は大滝氏と言い、その後の二代目の長野充靖氏が親方として一つの時代を築いた。その長野充靖氏が2015年に急逝し、後を継いだのが中村龍次郎氏である。中村龍次郎氏は金沢「葵寿し」(閉店)で修業を始め、銀座「萩わら」などを経て2014年に「海味」に入店した。長野充靖氏の亡き後の「海味」を三代目として支えた。その中村龍次郎氏も2019年11月に外苑前に「鮨 龍次郎」として独立。現在は京都リッツカールトンの「水暉」にいた平公一氏(「海味」での修業歴はない。)が四代目の親方として青山「海味」を継承している。

 「海味」長野充靖氏の弟子としては福岡「鮨さかい」の堺大悟氏、「東麻布天本」の天本正通氏、鹿児島「名山きみや」の木宮一樹氏、長野県茅野市近くの「中野屋」の中山洋介氏がいる。

 天本正通氏の父は福岡中州の屋台「紀文」の店主で、その父の紹介で福岡の春吉にある「鮨割烹高玉(こうぎょく)」で修業を始める。3年間の修業の後に赤坂の「とゝや魚新(ととやうおしん)」に移る。当時「高玉」時代の兄弟子だった福岡「鮨さかい」の堺大悟氏が「海味」で修業しており、その堺大悟氏の誘いで「海味」に弟子入りした。その後、二番手としてつけ場に立ち、独立を目指して滋賀の「しのはら」や京都「祇園さゝ木」で日本料理を学び、満を持して2016年に「東麻布天本」を開業した。

 木宮一樹氏は宮崎「一心鮨光洋」の木宮一高氏の三男であり、「海味」での修業後に「一心鮨光洋」に戻るが、その後、兄で次男の木宮一成氏とともに鹿児島「名山きみや」として独立した。ちなみに木宮一成氏は「一心鮨光洋」の総料理長をつとめ、主に料理を担当している。長男の木宮一洋氏は宮崎「一心鮨光洋」で修業した後にシンガポールでの海外経験を経て、福岡「鮨料理一高(いちたか)」を2019年8月にオープン。四男の木宮一光氏はソムリエ・サービス担当として宮崎「一心鮨光洋」を継いだ。なお「一心鮨光洋」の鮨職人は空久保晴義氏と上村亮介氏が担当している。

 ちなみに福岡の和食「一本木石橋」の石橋康孝氏も「海味」の出身である。

 

 

(追記)2020年11月3日

 2020年2月に神楽坂にオープンした「波濤」は和食の「石かわ」グループの店。その「石かわ」で10年あまり修業し、「東麻布天本」で1年間修業した熊切大地氏が「波濤」のカウンターに立つ。

 

(追記)2021年9月5日

 2021年9月5日、東京駅前の日本橋3丁目に青山「海味」の支店、「八重洲 鮨 海味」がオープン。

 

(追記)2021年12月14日

 青山「海味」は八重洲に続いて赤坂に分店「赤坂鮨海味」を2021年11月30日に開店。なお青山「海味」の平公一氏は2021年10月で「海味」を辞めて、独立開業予定。後任は島本氏。

 

(追記)2022年3月17日

 2022年3月14日、元麻布に「すし田いら」がオープン。店主は青山「海味」にいた平公一氏。

 

(追記)2023年7月23日

 「赤坂鮨海味」は2022年12月に閉店。

 

(追記)2023年7月23日

 福岡「鮨さかい」の2号店「我逢人」は個室が3室ある作りで、川嶋忠氏、西村陽一郎氏が担当。西村陽一郎氏は2023年3月までで、今後、福岡住吉に独立開業予定。2023年4月から吉田翼氏が個室担当。

 

 

 











 



 

  • 参考書籍

 

dancyu」2006年1月号 プレジデント社

「鮨」食べログBOOKS 2018年 セブン&アイ出版

「東京カレンダー」2017年1月号 東京カレンダー株式会社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その三十三 「三谷」

 四谷「三谷」の三谷康彦氏は「鮨魯山伊勢丹新宿本店」の出身。2006年に独立し、今では予約困難店の一つ。2016年には系列の「紀尾井町三谷」を出店し、現在は総店長として高野博幸氏が務める。

 その「紀尾井町三谷」出身の加藤聡氏が六本木一丁目に「桜坂加とう」として2018年に独立した。

 また、加賀美壽男氏は調布のすし屋で修業を初め、いくつかの店で修業した後、地元の山梨に戻っていたが、「紀尾井町三谷」の副店長として3年勤めた後に2019年に赤坂「かがみ」をオープンした。

 

(追記)2021年9月5日

 2021年9月2日、四谷「三谷」の三谷康彦氏が東京ガーデンテラス紀尾井町の「紀尾井町三谷」と同じフロアに「紀尾井町三谷別邸」をオープン。本多栄輝氏と小峰翔太氏が担当とのこと。

 

 

 












 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その三十二 「築地寿司清」

 創業明治22年(1889年)の「築地寿司清」は「築地寿司清築地本店」を初めとして全国に30店舗あまりを経営しており、「築地寿司清」の他に「鮨魯山」「すし魚寿」「鮨竹山」などを展開している。

 「鮨魯山」の出身には「三谷」の三谷康彦氏、「鮨臥龍」の安達佳一氏、「鮨波やし」の林寿一氏など。その他「寿司清」出身者は「ふじ清」の藤井清章氏、「鮨石島」の石島吉起氏、「銀座すし処真」の渡辺真喜氏、「日本橋さとう」の佐藤武氏など多数。

 「鮨波やし」出身の鈴木道紀氏は2019年に高円寺「かくきゅう」をオープンした。

 

(追記)2020年6月29日

 中村導昌氏は1978年埼玉県生まれ。高校卒業後に「築地寿司清」に入社して7年間勤務。その後、「意気な寿し処阿部」に入社して、店長を務める。2008年3月に独立し、白金「鮨心」をオープンした。2013年8月には南麻布に移転して現在に至る。2017年4月には西麻布に「鮨心はなれ」をオープン。店主は斉藤輝久氏。

 

(追記)2021年5月28日

 「築地寿司清」で修業し、銀座4丁目店で板長を務めていた豊本誠氏が独立して、2021年3月31日、平河町に「鮨誠虎(まこと)」を開業。夜は完全紹介制とのこと。

 

(追記)2022年10月8日

 恵比寿「大六」だった場所に「築地寿司清」出身の中武智樹氏が「鮨処たけ原」をオープン。

 



 











 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その三十一 「鮨なんば」

 難波英史氏は都内のすし店に勤めた後、2006年に32歳で独立して荻窪「鮨なんば」を創業し、その後、2011年に阿佐ヶ谷に場所を移した。2018年には日比谷ミッドタウンの開業にともない阿佐ヶ谷の店を二番手の高岡俊輔氏に託し、「鮨なんば日比谷」を開く。シャリにこだわり、徹底した温度管理を行う。

 三浦健太氏は赤坂の料亭「菊之井」で修業し、独立を目指して阿佐ヶ谷の「鮨なんば」で腕を磨いた。「鮨なんば日比谷」の開店当初には店に入り、その後、2019年に麻布十番「鮨みうら」を開く。

 阿佐ヶ谷「鮨なんば」「鮨なんば日比谷」で二番手を勤めた小川洋史氏が「すし処 美波」を青山に2020年4月開業。

 

 

(追記)2020年8月12日

 高岡俊輔氏は1988年東京都出身。魚屋で働いていた19歳の時に荻窪「鮨なんば」に入店。2018年に難波英史氏がミッドタウン日比谷に移り、阿佐ヶ谷の店を任されていた。

 2020年5月から店名を「鮨しゅん輔」とした。

 

(追記)2021年10月11日

 「鮨なんば日比谷」で修業した梢ひろし氏が高輪に「鮨梢」として独立。2021年9月にプレオープンし、10月13日正式オープン予定。

 

(追記)2022年10月4日

 麻布十番「鮨みうら」が2022年9月30日にいったん閉店。今後、場所を移して開業予定。

 

(追記)2022年10月4日

 西崎亮平氏は、15歳から幡ヶ谷のすし店で修業を始め、和食などを経て「鮨なんば日比谷」で修業、「鮨しゅん輔」の二番手を経て2022年4月、東北沢に「鮨西崎」を開店。

 

(追記)2023年3月14日

 赤坂の料亭「菊之井」出身で、阿佐ヶ谷の「鮨なんば」、日比谷ミッドタウンの「鮨なんば日比谷」で修業した三浦健太氏の麻布十番「鮨みうら」は2022年9月30日にいったん閉店となったが、2023年4月12日に東京ミッドタウン近くの赤坂に移転オープン。

 

(追記)2023年7月25日

 以前から不規則に営業していた「鮨なんば四谷」を系譜に追加。「鮨なんば日比谷」で修業した高梨勇磨氏が担当。

 

 

 







 

 

 

  • 参考書籍

 

dancyu」2017年1月号 プレジデント社

「美味サライ」 今行くべき口福の鮨 2019年10月 小学館

「寿司を極める。」 2018年 宝島社

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

番外編その一 「現存する老舗江戸前すしの店」

 少し前まで「現存する最古の江戸前すし」の店として知られていた銀座「すし栄」は、嘉永元年(1848年)に神田旅籠町に創業したのが始まりで、初代は倉田栄蔵氏。二代目は倉田金太郎氏。三代目の倉田華太郎氏は明治29年(1896年)生まれで、倉田華太郎氏の時、昭和10年(1935年)に銀座数寄屋橋に移転した。当時、たいそう繁盛したらしい。(「すし技術教科書・江戸前ずし編」 全国すし商環境衛生同業組合連合会監修 佳藤木一整 編 1975年初版 旭屋出版)

 四代目が倉田桂二郎氏、五代目が倉田元治氏であり、2013年に「すし栄(本店)」は閉店となった。

 銀座「すし栄」の支店として「すし栄木挽町店」「すし栄渋谷東急東横のれん街店」「すし栄浅草松屋地階店」などがあったがいずれも閉店。今は浅草「すし栄」などの暖簾分けの店が残る。

 現存する最古の江戸前すしの店は、おそらく芝浦「おかめ鮨」と思われる。「おかめ鮨」は安政2年(1856年)(芝浦「おかめ鮨」ホームページより)に創業し、現在は五代目の長谷文彦氏が暖簾を受け継いでいる。

 次に古いと思われるのが九段下「寿司政」で、創業は文久元年(1861年)となる。日本橋で屋台をひきながら商売を始めたのが初代戸張好造氏で、二打目太田福松氏の時には神田三崎町の歌舞伎小屋ですしを握っていた。二代目の長男として生まれた戸張政次郎氏の時に今の九段下に店を構えた。現在は四代目の戸張太啓寿氏が店主を務め、五代目の戸張正大氏に引き継がれていく(九段下「寿司政」ホームページより)。

 その次が助六寿司の発祥とされる新富町「蛇の目鮨本店」で、創業は元治2年・慶應元年(1865年)。以下「弁天山美家古寿司」「日本橋すし鉄本店」と続く。

 

(調べた以外にも老舗江戸前すしの店は多数あると思われます。また、東京都心部以外にも老舗は多数あり、たとえば南房総市千倉町の「大徳家」は明治2年(1869年)創業。)

 

(追記)2020年4月11日

 築地「鮨文」は創業150年以上で、江戸末期創業とのことだが詳細不明。現在は五代目の磯貝(江間)真喜さん(四代目 江間晃二氏の次女)が暖簾を受け継ぐ。

 

 

 

 

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  • 参考書籍

「すし技術教科書・江戸前ずし編」 全国すし商環境衛生同業組合連合会監修 佳藤木一整 編 1975年初版 旭屋出版

「銀座のすし」山田五郎著 文春文庫 2013年 文藝春秋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その三十 「日本橋蛎殻町すぎた」

 「東日本橋都寿司」は日本橋蛎殻町「都寿司」の弟子が独立した店だが、2代続いて廃業となり、その後を引き継いだのが杉田孝明氏である。「日本橋橘町都寿司」を屋号として2004年にオープンした。2015年に場所を移して「日本橋蛎殻町すぎた」となり現在に至る。

 日本橋蛎殻町「都寿司」の山縣正氏のもとで修業を始め、その後「日本橋橘町都寿司」に入った橋本裕幸氏は2014年に「鮨はしもと」として独立した。2019年8月に八丁堀寄りの同じ新富にリニューアルオープンした。

 (2020年10月25日、当ブログの閲覧者様からの情報をもとに一部改変しました。)

 (2021年2月7日、当ブログの閲覧者様からの情報をもとに一部訂正しました。)

 

 

(追記)2020年11月30日

 タイ・バンコクの「鮨いちづ(ichizu)」は2017年8月開業。戸田陸氏は「鮨水谷」で水谷八郎氏に学び、「日本橋橘町都寿司」の時代から杉田孝明氏に師事した。

 (当ブログの閲覧者様から情報をご提供いただきました。)

 

(追記)2021年9月11日

 「銀座小十」で修業し、「日本橋蛎殻町すぎた」で2番手までつとめていた安井大和氏が2021年8月30日、築地に「鮨処やまと」を開業。

 

(追記)2021年12月20日

 2021年11月24日、「鮨はしもと」で修業した野口和暉氏が福岡に「枯淡」を開業。

 

(追記)2022年6月27日

 2022年6月3日、「鮨はしもと」で二番手だった紺野隆氏が、「鮨はしもと」のあった場所に「鮨美幸」をオープン。

 

(追記)2023年9月18日

 「鮨水谷」「日本橋蛎殻町すぎた」に在籍した後、タイのバンコク「鮨いちづ」で5年、戸田陸氏が帰国して西麻布に開店予定前の期間限定で元麻布に「鮨陸」をオープン。

 

 

 



 



 

  • 参考書籍・その他

 

dancyu プレジデントムック「すし」真髄 杉田孝明」 プレジデント社

dancyu」2007年4月号 プレジデント社

dancyu」2010年1月号 プレジデント社

dancyu」2015年1月号 プレジデント社

dancyu」2017年1月号 プレジデント社

dancyu」2018年8月号 プレジデント社

「鮨」食べログBOOKS 2018年 セブン&アイ出版

 「日本一江戸前鮨がわかる本」早川光著 2009年 (株)文藝春秋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その二十九 「都寿司」

 日本橋蛎殻町「都寿司」は明治20年(1887年)創業の老舗。初代は山縣太三吉氏で以前からすし店を営んでいたが、その詳細はわからず、明治20年創業としたとのこと。二代目は山縣浅七氏。三代目山縣曻太郎氏が山縣正氏の父で、第二次世界大戦後は自転車修理業を営んでおり、その資金で1950年(昭和25年)に「都寿司」を再開した。その後、1948年(昭和23年)生まれの山縣正氏が1986年(昭和61年)から四代目として店を継いだ。全国すし商生活衛生同業組合連合会の会長を務める。現在は五代目として2021年から山縣秀彰氏が継承し、山縣正氏が後ろから店を支える。

 群馬県館林市「鮨恵三(めぐみ)」の荻原裕司氏は「都寿司」で修業を始め、札幌「すし善」に移り、館林に戻る前の2年間は杉田孝明氏の「日本橋橘町都寿司」に在籍した。荻原裕司氏は三代続くすし職人で、店名は祖父の店「恵三郎」に由来する。

 郡山の「鮨来多老(こたろう)」の羽生孝太郎氏も「都寿司」の出身。その他には両国「鮨北条」の北条充氏など。

 

 (2021年2月7日、当ブログの閲覧者様からの情報をもとに一部訂正しました。)  

 

(追記)2023年7月23日

 本文および系譜の一部を修正・追記しました。

 

 

 

 

 













 

 

  • 参考書籍・その他

 

dancyu」2017年1月号 プレジデント社

dancyu」2020年1月号 プレジデント社

「美味サライ」 今行くべき口福の鮨 2019年10月 小学館

dancyu プレジデントムック 「すし」神髄 杉田孝明」 プレジデント社

「すしの雑誌(第20集)」 旭屋出版

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その二十八 「青柳」

 「寿し屋の勘八」はすし職人の修業の場でもあり、系列店も多数あるが独立開業する職人も多い。「寿し屋の○○」「勘○」「○勘」などの店名は「寿し屋の勘八」出身者が多い。たとえば「すし屋の勘六」「すし屋の野八」「すし屋の芳勘」など。

 「すし屋の野八」の二代目池野弘礼氏はシャリが米一粒のミニ寿司を作る。「まつ勘」の小松健児氏は「寿し屋の勘八」や「久兵衛」で修業し、1978年に麻布十番に創業した。

 祖師ヶ谷大蔵の「青柳」(閉店)も「寿し屋の勘八」出身。ご主人の青柳武氏は、明治の末の1896年(明治29年)に柳橋に創業した「寿司勘」の青柳勘次氏の甥にあたる。青柳勘次氏は昭和天皇の御前で握ったこともあるとのこと(TBSテレビ:https://www.youtube.com/watch?v=_6Ir5DiOmx8)。

 その後、青柳勘次氏の七男青柳利男氏が1951年に銀座に「御寿司處銀座青柳」を開店。1960年に三原橋に移転となるが1989年に閉店した。「御寿司處銀座青柳」は紹介者なくして入れない店であったらしい。

 

(追記)2021年9月13日

 等々力の「すし処會」で13年ほど修業し、フレンチでの修業歴もある上野純平氏の渋谷「鮨五徳」(移転前は「五徳」)を系譜に追加しました。

 

(追記)2021年9月7日

 祖師谷大蔵の「青柳(閉店)」で20年修業した楠本光秀氏の「寿し屋の楠本」と学芸大岳の「すし屋の芳勘」出身の中山信博氏が営む等々力にある「すし処會」を追加しました。

 

(追記)2021年2月7日

寿司・懐石處 やなぎ2代目様よりコメントをいただき、訂正・追加しました。コメントいただいた寿司・懐石處 やなぎ2代目様に深く感謝申し上げます。

 

(追記)2020年9月8日

 「青柳」で修業を始めた荒川真也氏の「鮨来主」、「すし屋の塾」で小竹俊雄氏に師事した山口芳郎氏が営む千葉県鴨川の「すし処 と貝」、「勘八本店」などで修業した佐藤陽一氏の西麻布「鮨いち」を系譜図に追加。 

 

 

 

 

 













 

 

 

 

  • 参考書籍・その他

 

江戸前にぎりこだわり日記」川路明著 1993年 朝日出版社

TBSテレビ:https://www.youtube.com/watch?v=_6Ir5DiOmx8

dancyu」1993年5月号 プレジデント社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その二十七 「あら輝」

 「寿司いずみ」出身の荒木水都弘氏は2000年に上野毛「あら輝」として独立した。独立前には「きよ田」の二代目新津武昭氏に師事した。新津武昭氏は「きよ田」がまだ六本木にあった頃に藤本繁蔵氏のもとで働いており、その頃の「きよ田」には藤本繁蔵氏、清水喜久男氏、井上正典氏、新津武昭氏、小林氏(詳細不明)がいて、新津武昭氏はまだつけ場に立っていなかった。

その十 「きよ田」 - すしの系譜

 

 荒木水都弘氏は「きよ田」の新津武昭氏に弟子入りを申しでるも新津武昭氏はそれを認めなかった。ただ、週一回仕込みを見ることを許され、その技術を継承したとされる(「銀座の鮨の物語(あら輝・増田勇):フジテレビ」)。

 その荒木水都弘氏は2010年に銀座に店を移すが、新天地を求めて2014年にロンドンに「THE ARAKI」を開店。現在は弟子のマーティ・ラウ氏に引き継ぎ、2019年に香港に新店を開設した。

 荒木水都弘氏の銀座移転の後、上野毛の店を引き継いだのが、「鮨嘉瑞」の堀内氏。大阪から上野毛に移り、2012年には京都で開業した。

 上野毛「あら輝」で修業していたのが市川克海氏。市川克海氏は「菊之井」での修業の後「あら輝」ですしを学ぶ。「あら輝」が銀座に移転した時には、ともに銀座「あら輝」に移るが、荒木水都弘氏のロンドン進出を機に上野毛の店を「いちかわ」として引き継いだ。その後、2017年に白金に移転して現在に至る。

 「あら輝」の弟子として修業していたのが駒田権利氏。伊勢のすし店から一念発起して荒木水都弘氏の弟子となり、その後伊勢に戻り、2013年に「こま田」をオープンする。

 その他、荒木水都弘氏の弟子には名古屋「浜源」の二代目鈴木太郎氏、「鮨行天」の行天健二氏がいる。

 ちなみに新津武昭氏は2008年頃に「鮨青木西麻布」で握っていた。

 

 

(追記)2021年2月15日

「浜源」の鈴木太郎氏は上野毛「あら輝」の最初のお弟子さんとのこと。

(当ブログの閲覧者様より情報をご提供いただきました。)

 

 

 



















 

 

  • 参考書籍・その他

 

「銀座の鮨の物語(あら輝・増田勇):フジテレビ」

dancyu」2006年1月号 プレジデント社

「鮨」食べログBOOKS 2018年 セブン&アイ出版

 東京生活別冊「東京のすし通になれる本」 2006年 枻出版社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その二十六 「寿司いずみ」

 「寿司いずみ」の佐藤勇氏は「寿し屋の勘八」出身。佐藤勇氏は1926年の生まれで1936年に日本橋鮨屋「弁富」に年季奉公に入った。終戦後の1945年に日本橋から暖簾分けした築地「弁富」に入る。その後は都内のすし屋を10年程度かけて多数回り「銀座勘八」の親方となった。その頃「勘八」は次々と支店をだして、佐藤勇氏は総親方となったとのこと。「勘八」退職後に「銀座福助」で数年勤め、1975年に自分の店「寿司いずみ」を目黒に出した。

 「寿司いずみ」二代目の佐藤衛司氏は「勘八国際ビル店」で修業を始め、1年半ほど「勘八」で修業した後に「すし屋の塾」(閉店)に入店した。父親の兄弟分である小竹俊雄氏の店である。

 その二十五 「寿し屋の勘八」

2年後には銀座「晶かく」(閉店)に移動。そして1975年に父・佐藤勇氏とともに「寿司いずみ」を開店した。以上は「失われゆく鮨をもとめて」一志治夫著に詳しい。

 その「寿司いずみ」で修業した「鎌倉以ず美」の神代三喜男氏は、2018年から銀座にも開店して両方の店を行き来している。「鮨由う」の尾崎淳氏は「鮨かねさか」や神楽坂の「鮨りん」でも修業されているが、修業歴が長く最も影響を受けているのが「鎌倉以ず美」とのこと。「鮨由う」で二番手を勤めていた岡田貴裕氏は2019年に広尾の「鮨在」に移る。

 

(追記)2021年4月14日

 広尾「鮨在」出身の阿重田博紀氏が渋谷に「あじゅう田」を2021年4月12日にオープン。

 

(追記)2021年8月7日

 「鮨由う」の姉妹店として恵比寿に「鮨結う翼」が2021年7月27日にオープン。井上力年氏、田原和樹氏などの若手職人が担当。経営は「鮨由う」、「鮨在」、銀座「佐たけ」などと同じ、株式会社真。

 

(追記)2022年10月4日

 「なかのや」の金城毅氏は沖縄に戻り、2021年12月に「仲ノ屋」として再開した。

 

 

 

 







 



 

 



 

  • 参考書籍

 

「失われゆく鮨をもとめて」一志治夫著 2006年 新潮社

「寿司のこころ」 2015年 枻出版社

dancyu」2018年8月号 プレジデント社

「寿司大全」 2018年 枻出版社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その二十五 「寿し屋の勘八」

 「寿し屋の勘八」の創業は1953年で、創業者はすしの職人ではなく経営専門の中村孝行氏と言う人で、現在の代表者は中村達氏。初代の親方は飯沼春吉氏と言い「三長会」に属する優れた職人であった。銀座7丁目に創業し、その頃には「喜久好」(閉店)の清水喜久男氏や「鮨處寬八」の山田博氏などが飯沼春吉氏のもとで修業していた。

 

清水喜久男:その十一 「すゞ木」「山路」「喜久好」 - すしの系譜

山田 博:その四十五 「鮨處寬八」 - すしの系譜

 

 二代目は小竹俊雄氏(旧姓岩田)で、後に馬込に「すし屋の塾」と言う店を開店した。目黒「寿司いずみ」の佐藤勇氏とは、勘八時代に兄弟弟子の関係にあったとのこと。「すし屋の塾」ではその名の通り弟子を育て、上池台の「すしやの三拍子」や馬込の「すしやの嵯峨」はその出身者の店。

 「寿し屋の勘八」は「三長会」と関係が深く、三代目の開田孝氏も「三長会」に属していた。開田孝氏は「久兵衛」などで修業し「寿し屋の勘八」で勤めた後、勘八グループの銀座「まんまる鮨」(閉店)に移ったあと上馬「すし屋の勘太」として独立した。その店も1990年に閉店したとのこと。

 

 

(追記)2023年1月9日

 「まつ勘」出身で海外での経験もある阿部国充氏が2022年8月、東中野に「鮨くにみつ」をオープンした。

 

 

 











 

 

 

  • 参考書籍

 

江戸前にぎりこだわり日記」川路明著 1993年 朝日出版社

「失われゆく鮨をもとめて」一志治夫著 2006年 新潮社

江戸前鮨 伝統の技と真髄」清水喜久男著 2011年 講談社