その五十二 「匠進吾」「匠誠」「匠鮨おわな」

 

 店名に「匠」を冠した「匠進吾」「匠誠」「匠鮨おわな」の3店。

 四谷「すし匠」に16歳で入店し、18年の修業をつんだ高橋進吾氏は1978年茨城県生まれ。29歳から3年間はすしから距離をおいて、漁師や酒蔵での日本酒づくりなどを経験した。2013年に独立して青山に「匠進吾」を構えた。

 志村誠氏は四谷「すし匠」で15年近く修業し、「鮓村瀬」の立ち上げにも参加。海外のホテル勤務や日本船クルーズ客船のすし店責任者として乗船したこともある。2017年に自身の店「匠誠」を新宿にオープンした。「匠達広」「すし岩瀬」と引き継がれてきた新宿駅南口からすぐの場所。

 小穴健司氏は静岡県出身。実家がすし屋で、すし職人を目指して四谷「すし匠」で約10年の修業を重ね、2017年8月、36歳の時に「匠鮨おわな」を恵比寿にオープンし独立した。

 

(追記)2022年3月10日

 四谷「すし匠」で修業し、青山「匠進吾」で二番手だった「やっさん」こと山口康広氏が、2022年2月17日西麻布に「鮨山口」をオープン。場所は「鮨宮園」だったところ。

 

 

 

 

















 

 

 

 

 

 

 

 

 

その五十一 「匠すし昴」「匠達広」

  「匠すし昴」は四谷「すし匠」で修業した松本卓氏により2002年に青山一丁目駅近くにオープン(現在「匠進吾」の場所)。2013年2月に現在の表参道の骨董通りに移転した。2019年にはリニューアルオープンし、兵庫県出身の外屋敷光宏氏が引き継ぎ、松本卓氏はハワイ「SUSHI SHO」へと移った。(2021年のコロナ渦にともなうハワイ「SUSHI SHO」の休業により「すし匠齋藤」に移動し、現在に至る(2022年2月現在)。)

 「すし昴」で修業した久保田真介氏は「鮨久保田」を2012年に博多で開業。久保田真介氏は18歳の時に「すし昴」に入店。その後、数店舗で修業した後に20歳代で開業した。

 西達広氏は金沢県に生まれ、金沢の和食店や東京都内の鮨店で修業した後に四谷「すし匠」に入る。5年ほど修業した後、2009年に新宿駅前に「匠達広」を開店して独立した。2012年には現在の新宿御苑前に移転。2017年には姉妹店「鮨ばんど」を開業し、「匠達広」で3年ほど修業して二番手だった伊山徳宗氏が任されている。

 2019年2月には「匠達広」の向かいに西達広氏自身の苗字を冠した「西」をオープン、昼の営業として始まったが、現在は15時からの夕方の営業も行っている(夜は貸し切りのみの営業)。

  

(追記)2021年1月24日

 「匠達広」が「戸越銀座鮨ばんど」を2021年1月8日にオープン。つけ場に立つのは「匠達広」で二番手をつとめ「新宿御苑鮨ばんど」をまかされていた伊山徳宗(いやまのりかず)氏。

 

 

 

 

















 

*参考書籍

 

dancyu」2015年1月号 プレジデント社

「寿司のこころ」 2015年 枻出版社

「美味サライ」 今行くべき口福の鮨 2019年10月 小学館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その五十 「すし匠まさ」

 岡正勝氏は16才の時に銀座のコリドー街の「すし㐂(閉店)」というすし店で佐々木啓仁氏(秋田「すし匠」)と一緒に働いていた。その後、佐々木啓仁氏とともに六本木の「むらた(閉店)」というすし店で働いている時に中澤圭二氏と齋藤敏雄氏が客として来たのが中澤圭二氏との最初の出会いであった。中澤圭二氏が「すし匠さわ」を開業するにあたり、そのメンバーの一人として岡正勝氏を引き抜いた。岡正勝氏は四谷「すし匠」での修業の後、青山「海味」に2年7ヶ月の間、長野充靖氏のもとで働いた。1990年台後半のことであった。その後、自らの意思で大阪、富山、六本木などのすし店で修業し、2004年西麻布に「すし匠まさ」を開店する。

 「すし匠まさ」「すし昴」「匠達広」で修業した岩瀬健治氏は2012年、新宿に「すし岩瀬」を開業。2017年には都庁近くに移転して現在に至る。

 また、四谷「すし匠」「すし匠まさ」「匠達広」で修業し「すし岩瀬」では二番手を勤めた天木雅章氏は2015年、名古屋で「あま木」を開業した。

 前岩和則氏は和歌山県出身。「すし匠まさ」で修業し、二番手まで勤めた。その後神泉「小笹」で修行。さらに生産者を訪ねたり地方を巡り、開業前には中華の「茶禅華」で1年ほど修業し、28歳で広尾「すし良月(あきら)」を立ち上げた。屋号は御祖父様「朗」の名前に由来している。ちなみに場所は「鮨心白」の跡地。

 

 

 

 















  

  • 参考書籍

「一個人」2007年1月号 KKKベストセラーズ

 

 

 

 

 

 

 

その四十九 「すし匠齋藤」

 

 齋藤敏雄氏は1968年山梨県生まれ。高校卒業後に最初に修業したすし店で中澤圭二氏と出会い、「すし匠さわ」開業時のメンバーとなる。1993年、四谷「すし匠」が開店する時に渡米、主にニューヨークですし職人として活躍し、2001年に帰国して四谷「すし匠」に入った。その後、2006年に独立して「すし匠齊藤」を赤坂の地に開業した。

 齋藤敏雄氏の弟子にあたるのが、「一番町てる也」の飯田照也氏と「不動前すし岩澤」の岩澤資之氏である。

 飯田輝也氏は親の仕事の関係で高校時代からニューヨークに在住しておりニューヨークにいた齋藤敏雄氏に声をかけられてすし職人の道を目指した。日本に帰国してからは中澤圭二氏の紹介で、宮崎で生魚も扱うお店で2年ほど修業、六本木のすし店を経て、齋藤敏雄氏の独立を機に「すし匠齋藤」で修業を行った。その6年後の2012年、麹町に「一番町てる也」を開業した。

 岩澤資之(もとゆき)氏は前職がシステムエンジニアリングという異色の経歴の持ち主。25歳の時にすし職人を目指し、すし店に入職。その後「すし匠齊藤」の二番手として修業し、41歳となる2016年に「不動前すし岩澤」をオープンした。

 

(追記)2021年11月7日

 秋田出身の小池彰範氏は「すし匠齋藤」「すし岩瀬」で修業し、「不動前すし岩澤」を経て2019年8月、逗子に「鮨波良(なら)」を独立開業。

 

 

 

 















 

 

 

 

 

 

 

 

その四十八 「すし浅尾」

 中澤圭二氏は26歳の時に「すし匠さわ」の店長となるが、その時の弟子が、22歳の浅尾英二氏、21歳の齋藤敏雄氏、そして17歳の岡正勝氏であった。四谷「すし匠」を始めるときに規模を縮小する中で、中澤圭二氏の命で浅尾英二氏は沼津のすし店に移動し、そこで生魚を多く扱った。四谷「すし匠」を1993年11月に開いたあと、浅尾英二氏はその暮れまで店にいたが、年明けには沼津に移動。その後も四谷「すし匠」に手伝いで入ることがあったとのことで、四谷「すし匠」のオープンの翌年の夏から「すし匠」に入った佐々木啓仁氏とは、その頃から親交がある。佐々木啓仁氏は2001年に秋田に同名の「すし匠」を開業して現在に至る。

 浅尾英二氏はその後、中央区佃のリバーシティにあった和食「さくら亭」の料理長を経て、2007年、月島「すし浅尾」を開業した。 

 その「すし浅尾」で修業歴があるのが野口智雄氏である。野口智雄氏は15歳から会員制のすし店で修業し、「すし浅尾」で2年あまり修業した後に代々木上原に「すし久遠」をオープンした。「すし久遠」にある江戸切子は野口智雄氏の父親である名匠・黒川昭男氏の作品。「すし浅尾」の江戸切子も黒川昭男氏の作品である。

参考URL:https://wazamon.net/craftsman/kurokawa/

 

 「すし久遠」では「鮨あらい」の新井祐一氏や「鮓村瀬」の村瀬信行氏などが修業している。また、乃木坂「鮨處かざま」、西麻布「鮨真」から「すし久遠」に移って二番手を担っていたのが菅谷崇之氏である。菅谷崇之氏はその後「鮨あらい」に移り、2018年に赤羽橋駅の近くに「鮨すが弥」をオープンした。

 

 

 












 

 

 

  • 参考書籍

鮨屋人間力」中澤圭二著 2007年 文藝春秋

「旅する江戸前鮨「すし匠」中澤圭二の挑戦」一志治夫著 2018年 文藝春秋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その四十七 「すし匠」

 中澤圭二氏は1962年、東京に生まれる。中学卒業後に各地のすし店や割烹・料亭などで修行を重ねた。最初に修業を始めたのが東久留米の鰻割烹「川松」であり、21歳の時には東久留米「喜平寿司」ですしを握った。大阪心斎橋にあった割烹「川久」などで修業し、1989年、26歳のときに麹町(二番町)「すし匠さわ」の店長となる。その時のメンバーには「すし浅尾」の浅尾英二氏、「すし匠齋藤」の齋藤敏雄氏、「すし匠まさ」の岡正勝氏がいた。

 ちなみに「海味」の長野充靖氏とは河田町にあった「移山」という店で出会い、修業時代から親交が深かった。また、白金高輪和食店「福わうち」を営む三宮昌幸氏とも互いに交流がある。

 それらの経緯については「鮨屋人間力、中澤圭二著」「旅する江戸前鮨「すし匠」中澤圭二の挑戦、一志治夫著」に詳しい。

 1993年には「すし匠はな家与兵衛」を現在の地である四谷にオープン。その後、中澤圭二氏は新天地を求めて2016年にはハワイのリッツカールトン(The Ritz-Carlton Residences, Waikiki Beach)に「SUSHI SHO」を出店した。四谷「すし匠」は勝又啓太氏が引き継いで現在に至る。

 勝又啓太氏は1985年、静岡県生まれ。高校卒業後、辻調理師専門学校に入り、その後、京都「嵐山吉兆」で2年あまり修業を積んだ後、四谷「すし匠」に入店。中澤圭二氏がハワイの店に移ったことを機に、2016年6月より店を任された。

 

 

(追記)2023年9月17日

 築地のすし店で修業を始め、すし匠ハワイの立ち上げにかかわった松倉草平氏が、よしたけプロデュースの香港「すし志魂」を経て、2022年7月13日に札幌に「鮨草平」を開業。

 

 

 

 

 













 

 

  • 参考書籍

 

鮨屋人間力」中澤圭二著 2007年 文藝春秋

「旅する江戸前鮨「すし匠」中澤圭二の挑戦」一志治夫著 2018年 文藝春秋

「鮨」食べログBOOKS 2018年 セブン&アイ出版

dancyu」2015年1月号 プレジデント社

 

 

 

 

その四十六 「新富鮨」

「新富鮨」は大正初期に和田富太郎氏が出した屋台に始まる。新橋に構えた店は昭和初期には立ち食いの場所があったことが、当時の写真でうかがえる(「すし通」永瀬牙之輔著)。

 その後、1927年(昭和2年)に和田富太郎氏の弟の神山幸次郎氏が新橋に「新富寿し」を開き、1955年(昭和30年)に銀座5丁目に店を移した。二代目は神山幸次郎氏の妻で、三代目として神山幸次郎氏の孫にあたる神山富雄氏に暖簾が引き継がれたが、2017年に閉店となっている。

 銀座「新富寿し」で修業した三橋克典氏が銀座「み富」として「新富鮨」の系譜を受け継ぐ。

 「新富鮨」の出身としては、名人と言われた矢沢貢氏が「新富鮨」として新橋に開業したが、今は閉業となっている。矢沢貢氏の息子が青山に開業し、北青山三丁目の第一青山ビルの「新富寿司」がそれにあたると思われるが、ここも現在は閉業となっているため、詳細は不明。

 また神山幸次郎氏の兄弟弟子で「新富鮨」で修業したのが鈴木博恭氏で1950年に銀座「きかく鮨」を開店。「きかく鮨東店」という支店もあったようだが、いずれも閉店となっている。

 その「きかく鮨」での修業経験があるのが菊池寬氏で、西麻布に「鮨寛」を開業している。

 

(追記)2021年9月13日

 銀座「新富寿し」で6年間修業した安田豊次氏の大阪「すし豊」と「かぐら坂新富寿司」を系譜に追加しました。

 

 

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  • 参考書籍

 

「すし通(昭和5年名著)」永瀬牙之輔著 1983年 土曜社

江戸前にぎりこだわり日記」川路明著 1993年 朝日出版社

「銀座のすし」山田五郎著 文春文庫 2013年(株)文藝春秋

 

 

 

 

 

 

 

番外編その二 「すしの握り方」 ③本手返し

 「本手返し」は最も伝統的な返しの手法と言われており、木挽町の「美寿志」で明治時代に完成されたと言う説がある。(小堺化学工業株式会社ホームページより:食のサロン 「江戸前鮨の話」 | 小堺化学工業株式会社)。

 華麗で美しいが、手数が多く時間がかかるため、現在では「本手返し」を使う職人は少ない。

 

松波順一郎氏 

 
 
 
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  • 本手返し(順不同・敬称略)

  

「二葉鮨」     小西亜紀央

「きよ田」     新津武昭

「きよ田離れ」   木村 正

「きよ田」     吉沢範彦

「寿司幸」     杉山 衛

「与志乃」     吉野末吉

「鮨松波」     松波順一郎

「吉野鮨本店」   吉野正二郎

「あら輝」     荒木水都弘

「鮨木場谷」    木場谷光洋

「増田勇」     増田 勇

「金多楼」(三宿) 野口四郎

「鮨嘉瑞」     堀内幸継

「鮨あき」     冨田彰房

 

 

 

 

 

 

   

番外編その二 「すしの握り方」 ②縦返し

 「縦返し(立て返し)」は左手に持ったネタとシャリを、手を返して(甲を上にして)ネタが上になった状態で右手の親指と人差し指で受けて返す方法。「仏壇返し」「俵返し」などとも呼ばれている。

 崩れやすいネタや滑りやすいネタなどの「小手返し」で横に転がしにくいネタの場合でも握りやすいとされ、普段「小手返し」で握っている職人もネタによって「縦返し」を使い分けることがある。

 

 

菅谷崇之氏 

 
 
 
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 尾崎 淳氏

 
 
 
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*縦返し(順不同・敬称略)

 

「寿司いずみ」     佐藤衛司

「鮨由う」       尾崎 淳

「すし佐竹」      佐竹 大

「すし匠齋藤」     齋藤敏雄

「鮨すが弥」      菅谷崇之

「鮨なんば日比谷」   難波英史

「鮨なんば」      高岡俊輔

「鮨みうら」      三浦健太

鮨屋小野」      小野淳平

「鮨龍尚」       田島尚徳

「小松弥助」      森田一

「み富」        三橋克典

「SUSHI SHO」    中澤圭二

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

番外編その二 「すしの握り方」 ①小手返し

 

 すしを握るには(右利きの場合)左手にネタをおき、その上に右手でシャリをのせるため、最初はネタが下になっている。そのため、どこかで上下(天地)を逆にする必要がある。これが「返し」と呼ばれるものであり、職人によって多種多様な返し方(握り方)をする。その「返し」には「本手返し」「小手返し」「縦返し」などと呼ばれる方法がある。

 まずは「小手返し」から。もっとも多くの職人が使っている「返し」のため、「小手返し」一つとっても十人十色の握り方があるようで、左手一つで重力や反動を利用して返す場合や、右手を添えて横に転がして返す「横手返し」、さらには返す方向が逆(手先から手のひらに向かって返す方法)の場合などがある。

 

斉藤孝司氏 

 
 
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引退された某氏、小手返しからのしっかりとした握り

 
 
 
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三谷康彦氏

 
 
 
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中村龍次郎氏

 
 
 
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すきやばし次郎」   小野二郎(左利き)

「鮨 水谷」      水谷八郎

「青空」        高橋青空

「鮨みずかみ」     水上行宣

「喜久好」       清水喜久男

久兵衛」       今田洋輔

「鮨かねさか」     金坂真次

「鮨さいとう」     斉藤孝司

「鮨久いち」      出口威知郎

「寿し処寿々」     藤井陽一郎

「鮨いしやま」     石山孝雄

「すし家」       橋本 守

「銀座いわ」      岩 央泰

「鮨とかみ」      小田将太

「はっこく」      佐藤博

「銀座鮨青木」     青木利勝

「鮨さわ田」      澤田孝治

日本橋蛎殻町すぎた」 杉田孝明

「鮨はしもと」     橋本裕幸

「弁天山美家古寿司」  内田 正

「すし匠」       勝又啓太

「すし浅尾」      浅尾英二

「すし匠まさ」     岡 正勝

「鶴八」        石丸久尊 

「新橋鶴八」      五十嵐寛和

「鮨竹」        竹内史恵

「鮨まつもと」     松本大

「小笹寿し下北沢」   西川 勉

「三谷」        三谷康彦

「鮨よしたけ」     吉武正博

「鮨わたなべ」     渡部佳文

「海味」        長野充靖

「鮨龍次郎」      中村龍次郎

「匠進吾」       高橋進

「すし岩澤」      岩澤資之

「鮓職人秦野よしき」  秦野芳樹

「鮨橋口」       奥 勝次

「冨所」        佐藤浩

「鮨処やまと」     安井大和

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その四十五 「鮨處寬八」

 

「鮨處寬八」の山田博氏は石川県羽咋市出身。1933年(昭和8年)生まれ。1948年に上京して翌年「三長会」に所属して「蛇の目鮨」で修業した。その後、青森「一力」に移動、東京に戻ってから有楽町「九重纏寿司」に勤めた。その後も「三長会」に所属しつつ銀座「勘八」(飯沼春吉氏)、銀座「すし春」(鈴木民部氏)、銀座「美よし鮨」などでの仕事を経て、1964年に独立して御徒町に「鮨處寬八」を開業した。1979年に同じ御徒町で店を移動、その「鮨處寬八本店」は山田博氏が85歳になる2018年9月に引退閉店となった。「鮨處寬八」には湯島店、鶯谷店、上野店があったが、いずれも閉店となっている。

  三長会

 その十三 「奈可田」 - すしの系譜

 その二十五 「寿し屋の勘八」 - すしの系譜

 「鮨處寬八」の出身者としては、谷中「八車」(閉店)の竹内豊氏(「鮨處寬八湯島店店長」)、福井「すし處はら田」の原田修氏(「鮨處寬八鶯谷店店長」)、豊橋「滝鮨」の伊藤順次氏(「鮨處寬八鶯谷店」)などがいる。

その経緯については山田博氏の著書の「こころで握る」(2014年、メタ・ブレーン)に詳しい。

 その他の「鮨處寬八」出身の職人としては、柴田英昭氏が「鮨處寬八」「鮨奈可久」で修業した後に、実家の船橋「おかめ寿司」に戻り、三代目として継承。

 北海道出身の渡邊彰氏は「鮨處寬八」で16年ほど修業した後に「鮓かね庄」を浅草に開業。

 「鮨處寬八」で渡邊彰氏の後輩にあたる後藤友佑氏は「鮨處寬八」修業後に、錦糸町「魚寅鮨」などに所属し、2017年に「鮨たか橋」のつけ場に立ち、2020年6月からは「寿し処 川(せん)」を任された。

 

 

 

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  • 参考書籍

 

「こころで握る」山田博著 2014年 メタ・ブレーン

江戸前にぎりこだわり日記」川路明著 1993年 朝日出版社

dancyu」2018年8月号 プレジデント社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その四十四 「鮨真」

 鈴木真太郎氏は世田谷の東松原にある「小かん鮨」でアルバイトを始め、そのまま社員として修業した。その後、都内のホテルのすし店に勤めるが、すぐに経堂の「寿矢」に移り、2年ほど修業した後の2003年に西麻布の交差点近くのビルの3階に「鮨真」を開業した。2011年には同じ西麻布だが日赤通りに店舗を移し、現在に至る。

 鈴木真太郎氏が修業した経堂「寿矢」は細野壽矢氏の店で、もともと「経堂美登利寿司寿矢」を屋号としていた。実家が1927年(昭和2年)創業の経堂「美登利寿司」であり、その「美登利寿司」は細野壽矢氏の兄にあたる四代目(三代目?)細野健氏が継承している。

 梅ヶ丘の「寿司の美登利」は、もともとは経堂「美登利寿司」から1963年に暖簾分けした店であるが、現在は(株)梅丘寿司の美登利総本店として銀座店、渋谷店、多摩川店など多店舗経営を行っており、経堂「美登利寿司」と経営的な関係はない。

 「鮨真」出身の佐藤浩二氏は北海道出身。地元の帯広のすし店で5年間ほど修業して上京、「鮨真」に弟子入りした。2年後に帯広に戻るも、ふたたび「鮨真」での修業を選び、すぐに東京に。それから5年間修業して、2018年に御成門に「冨所」を開業した。

 また「鮨すが弥」の菅谷崇之氏も「鮨真」での修業歴がある。

 その四十八 「すし浅尾」 - すしの系譜

 

 

 

(追記)2020年11月1日

 熊本「鮨仙八」の四代目にあたる中原貴志氏は、福岡の料亭や西麻布「鮨真」で修業し、2012年に先代の中原寿男氏から引き継ぐタイミングで中央区花畑町に「鮨仙八」を移転開業した。

 (当ブログの閲覧者様から情報をご提供いただきました。)

 

 

(追記)2022年3月2日、3月20日

 九州出身の濱野紘一氏は赤坂「菊之井」の出身で、熊本「鮨仙八」で6年あまり修業し、日本料理「八雲うえず」で修業の後に2022年2月15日、神楽坂で「一宇」を開業。

(「八雲うえず」の店主の上江洲直樹氏は赤坂「菊之井」の出身で、「菊之井」時代に濱野紘一氏や麻布十番「鮨みうら」の三浦健太氏と一緒に修業した。ちなみに神楽坂にある割烹、石川グループの「愚直に」の店主大塚将人氏も、同時期に赤坂「菊之井」で修業した一人。)

 

 







 

 

  • 参考書籍

 

東京生活別冊「東京のすし通になれる本」 2006年 枻出版社

「一個人」2007年1月号 KKKベストセラーズ

dancyu」2007年4月号 プレジデント社

dancyu」2018年8月号 プレジデント社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その四十三 「鮨尚充」

 「鮨尚充」の安田尚充氏は1980年千葉県の生まれで16歳の時に自由が丘の「鮨幸」に入る。その「鮨幸」は1981年創業で、渋谷幸雄氏が店主を務めている。安田尚充氏は「鮨幸」で15年間の修業の後に独立して、2011年に中目黒に「鮨尚充」を開いた。

 2019年に渋谷にオープンした「鮨利﨑」は塩﨑竜大氏と毛利太祐氏の二人が立ち上げた店。塩﨑竜大氏は恵比寿の「松栄」で修業して「鮨りんだ」にも在籍していた。また毛利太祐氏は自由が丘の「鮨幸」出身で、「鮨尚充」や新宿の「鮨青海」で修業した経歴の持ち主。その二人がそれぞれの名前を取って「鮨利﨑」の名前ですしを握る。恵比寿「松栄」と自由が丘「鮨幸」が「鮨利﨑」で繋がる。

 

(追記)2021年11月15日

 渋谷「鮨利﨑」の三号店となる「鮨利﨑恵比寿」が2021年11月1日オープン。場所は「鮨ニシツグ」の跡の居抜きとのこと。

 

 

 

 















 

 

  • 参考書籍

 

「鮨」食べログBOOKS 2018年 セブン&アイ出版

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

その四十二 「鮨りんだ」

 河野勇太氏は愛媛県出身。松山の和食店で修業を始め、恵比寿「松栄」に10年ほど勤めた後に、ニューヨークで3年間修業をつんで、32歳の時、2014年4月に「鮨りんだ」として独立した。屋号の「りんだ」は河野勇太氏の好きな「THE BLUE HEARTS」の「リンダリンダ」の曲名に由来する。

 2018年には姉妹店「らんまる」を目黒・不動前にオープンした。当初は宇和島うどんも供されるお店だったが、現在はすし専門となり島津千周(ゆきちか)氏が大将を任されている。

 「鮨あんじょう」の竹内進氏は恵比寿「松栄」で18年修業したあとに、2010年に独立した。また小倉健司氏は10年ほど「松栄」で修業し、自由が丘の奥沢に2020年「鮨光(ひかり)」をオープン。

 

(追記)2020年12月9日

 「らんまる」の大将・島津千周氏が、2020年11月白金に「島津」として独立オープン。

 

(追記)2021年10月11日

 「りんだ」「らんまる」の株式会社ショートストップが2021年10月1日、荏原に立ち食いすしの「ブルペン」を出店。若手の職人が担当。

 

(追記)2023年4月23日

 中目黒の「鮨りんだ」などで修業した佐藤勝氏が、2023年3月9日武蔵小山に「鮨季らく」をオープン。

 

(追記)2023年7月17日

 「鮨利崎恵比寿店」に在籍していた浦野博正氏が2023年7月3日、広尾に「鮨うらの」をオープン。

 

 

 



















 

 

  • 参考書籍

 

dancyu」2017年1月号 プレジデント社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その四十一 「松栄」

 恵比寿の「松栄寿司」は1966年の創業で、長男の松下義晴氏が跡を継ぎ、1992年にインテリアデザイナーの高取邦和氏(無印良品のデザインで知られる(株)スーパーポテト・創業者杉本貴志氏の共同設立者)のデザインにより「松栄」として再出発した。

 松下義晴氏は1995年に(株)ピューターズを設立、代表取締役社長として渋谷、六本木などにすし店を展開している他、蕎麦の「松玄」、「焼肉チャンピオン」、中華の「MASA’S Kitchen」などを手がけている。

 「松栄」の出身者としては、広尾「鮨あんじょう」の竹内進氏、奥沢「鮨光」の小倉健司氏、中目黒「鮨りんだ」の河野勇太氏などがいる。

 

(追記)2023年9月17日

 北海道出身の渡部朋仁氏は10代後半から銀座「米村」で修業し、その後、恵比寿「松栄(恵比寿本店)」に移りすしの修業を始めた。東京での10数年の修業を経て北海道中標津に戻り開業、2018年2月に札幌店をオープンして現在に至る。

 

 

 

 













 

 

  • 参考書籍

 

dancyu」1993年5月号 プレジデント社