2020-01-01から1年間の記事一覧

その五十九 「すし勘分店」

代々木上原にあり著名人の利用もあった「すし勘分店」は2019年7月に閉店。店主の関清氏は銀座の「勘八」で修業した後、1974年(昭和49年)開業の川崎「すし勘(本店)」から1970年台後半に「すし勘分店」として暖簾分けした。 「すし勘分店」で2番手だった小…

その五十八 「寿司政」

九段下の「寿司政」は文久元年(1861年)に初代戸張好造氏が日本橋の屋台で商売を始め、二打目太田福松氏は神田三崎町の歌舞伎小屋ですしを握っていたとある。二代目の長男として生まれた戸張政次郎氏の時に今の九段下に店を構え、現在は四代目の戸張太啓寿…

その五十七 「金多楼寿司」

神田須田町にある「金多楼寿司」は創業が1929年(昭和4年)で、当代三代目にあたるのが藤田武氏。 その初代の下で修業したのが野口四郎氏である。神田「金多楼寿司」の初代が本手返しを使っていたので、野口四郎氏は今でも本手返しを使う。 番外編その二 「…

その五十六 「高勢」

大正15年(1926年)「高勢」は台東区根岸に開業した。当時、根岸は花街として栄え、料亭街を形成しており、「高勢」も多くの座敷を有するすし店で、著名人も多く訪れる名店であった。初代は高橋勢太郎氏で、通名として京嗣(きょうじ)と名乗っていた。二代…

その五十五 「六兵衛」

日本橋人形町の水天宮近くにある「六兵衛」は1948年創業の老舗。二代目は森英雄氏?。おそらく三代目にあたる森隆嗣氏が継承している。 その「六兵衛」で24年間の経験を積んで2015年に人形町と馬喰横山の間の東日本橋に開業したのが一條聡氏の「鮨一條」であ…

その五十四 「すし長」

六本木の交差点近くに「鮨けん」という店があるが、その場所に戦前から30年以上の歴史を持つ「すし長」と言う店があった。店主は平野弘二氏と言い、浅草で修業したとのこと。 その「すし長」で修業したのが山中敏彦氏で、六本木の龍土町に1975年「纏鮨」を開…

その五十三 「鮨あらい」

新井祐一氏は1982年東京都に生まれ、高校卒業後に銀座「久兵衛」の門をたたく。「久兵衛」で8年あまり修業し、その後四谷「すし匠」で6年間の修業を経て、2015年10月に33歳で銀座「鮨あらい」を独立開業した. 「鮨あらい」で二番手をつとめていた渡辺健(…

その五十二 「匠進吾」「匠誠」「匠鮨おわな」

店名に「匠」を冠した「匠進吾」「匠誠」「匠鮨おわな」の3店。 四谷「すし匠」に16歳で入店し、18年の修業をつんだ高橋進吾氏は1978年茨城県生まれ。29歳から3年間はすしから距離をおいて、漁師や酒蔵での日本酒づくりなどを経験した。2013年に独立して青…

その五十一 「匠すし昴」「匠達広」

「匠すし昴」は四谷「すし匠」で修業した松本卓氏により2002年に青山一丁目駅近くにオープン(現在「匠進吾」の場所)。2013年2月に現在の表参道の骨董通りに移転した。2019年にはリニューアルオープンし、兵庫県出身の外屋敷光宏氏が引き継ぎ、松本卓氏はハ…

その五十 「すし匠まさ」

岡正勝氏は16才の時に銀座のコリドー街の「すし㐂(閉店)」というすし店で佐々木啓仁氏(秋田「すし匠」)と一緒に働いていた。その後、佐々木啓仁氏とともに六本木の「むらた(閉店)」というすし店で働いている時に中澤圭二氏と齋藤敏雄氏が客として来た…

その四十九 「すし匠齋藤」

齋藤敏雄氏は1968年山梨県生まれ。高校卒業後に最初に修業したすし店で中澤圭二氏と出会い、「すし匠さわ」開業時のメンバーとなる。1993年、四谷「すし匠」が開店する時に渡米、主にニューヨークですし職人として活躍し、2001年に帰国して四谷「すし匠」に…

その四十八 「すし浅尾」

中澤圭二氏は26歳の時に「すし匠さわ」の店長となるが、その時の弟子が、22歳の浅尾英二氏、21歳の齋藤敏雄氏、そして17歳の岡正勝氏であった。四谷「すし匠」を始めるときに規模を縮小する中で、中澤圭二氏の命で浅尾英二氏は沼津のすし店に移動し、そこで…

その四十七 「すし匠」

中澤圭二氏は1962年、東京に生まれる。中学卒業後に各地のすし店や割烹・料亭などで修行を重ねた。最初に修業を始めたのが東久留米の鰻割烹「川松」であり、21歳の時には東久留米「喜平寿司」ですしを握った。大阪心斎橋にあった割烹「川久」などで修業し、1…

その四十六 「新富鮨」

「新富鮨」は大正初期に和田富太郎氏が出した屋台に始まる。新橋に構えた店は昭和初期には立ち食いの場所があったことが、当時の写真でうかがえる(「すし通」永瀬牙之輔著)。 その後、1927年(昭和2年)に和田富太郎氏の弟の神山幸次郎氏が新橋に「新富寿…

番外編その二 「すしの握り方」 ③本手返し

「本手返し」は最も伝統的な返しの手法と言われており、木挽町の「美寿志」で明治時代に完成されたと言う説がある。(小堺化学工業株式会社ホームページより:食のサロン 「江戸前鮨の話」 | 小堺化学工業株式会社)。 華麗で美しいが、手数が多く時間がかか…

番外編その二 「すしの握り方」 ②縦返し

「縦返し(立て返し)」は左手に持ったネタとシャリを、手を返して(甲を上にして)ネタが上になった状態で右手の親指と人差し指で受けて返す方法。「仏壇返し」「俵返し」などとも呼ばれている。 崩れやすいネタや滑りやすいネタなどの「小手返し」で横に転…

番外編その二 「すしの握り方」 ①小手返し

すしを握るには(右利きの場合)左手にネタをおき、その上に右手でシャリをのせるため、最初はネタが下になっている。そのため、どこかで上下(天地)を逆にする必要がある。これが「返し」と呼ばれるものであり、職人によって多種多様な返し方(握り方)を…

その四十五 「鮨處寬八」

「鮨處寬八」の山田博氏は石川県羽咋市出身。1933年(昭和8年)生まれ。1948年に上京して翌年「三長会」に所属して「蛇の目鮨」で修業した。その後、青森「一力」に移動、東京に戻ってから有楽町「九重纏寿司」に勤めた。その後も「三長会」に所属しつつ銀座…

その四十四 「鮨真」

鈴木真太郎氏は世田谷の東松原にある「小かん鮨」でアルバイトを始め、そのまま社員として修業した。その後、都内のホテルのすし店に勤めるが、すぐに経堂の「寿矢」に移り、2年ほど修業した後の2003年に西麻布の交差点近くのビルの3階に「鮨真」を開業し…

その四十三 「鮨尚充」

「鮨尚充」の安田尚充氏は1980年千葉県の生まれで16歳の時に自由が丘の「鮨幸」に入る。その「鮨幸」は1981年創業で、渋谷幸雄氏が店主を務めている。安田尚充氏は「鮨幸」で15年間の修業の後に独立して、2011年に中目黒に「鮨尚充」を開いた。 2019年に渋谷…

その四十二 「鮨りんだ」

河野勇太氏は愛媛県出身。松山の和食店で修業を始め、恵比寿「松栄」に10年ほど勤めた後に、ニューヨークで3年間修業をつんで、32歳の時、2014年4月に「鮨りんだ」として独立した。屋号の「りんだ」は河野勇太氏の好きな「THE BLUE HEARTS」の「リンダリンダ…

その四十一 「松栄」

恵比寿の「松栄寿司」は1966年の創業で、長男の松下義晴氏が跡を継ぎ、1992年にインテリアデザイナーの高取邦和氏(無印良品のデザインで知られる(株)スーパーポテト・創業者杉本貴志氏の共同設立者)のデザインにより「松栄」として再出発した。 松下義晴…

臨時その一 すしのテイクアウト・お持ち帰り

〜すしのテイクアウト・お持ち帰り〜 (追記 2020年5月19日、22日、26日、31日、6月2日、12日、7月8日、8月2日、12月8日、2021年1月3日) 「鮨あお」 (その八 「すきやばし次郎」 - すしの系譜) 鮨あお 店頭受取のご予約 - OMAKASE 「日本橋蛎殻町すぎた」…

その四十 「千八鮨」

築地市場が1935年に移転する前は、本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目あたり)に日本橋魚河岸があった。その日本橋の魚河岸で富岡の八五郎氏が1820年代に始めた「魚河岸卸富八」の七代目にあたる松下進太郎氏が日本橋本町で…

その三十九 「江戸前鮓 すし通」

「逸喜優」の出身者には「江戸前鮓 すし通」の初代藤永大介氏や「鮨太一」の石川太一氏などがいる。 藤永大介氏は1990年に渋谷「三浜鮨」(閉店)で修業を始め、1999年に碑文谷「逸喜優」を経て、2005年に台北の「野壽司」で初代の料理長兼店長を務めた。200…

その三十八 「逸喜優」

細川四郎氏は自由が丘「とよ鮨」(閉店)出身で、1981年頃に碑文谷で「逸喜優(いっきゅう)」を開店した。「いっきゅう」と店名は決めていたが「一休」は平凡なので逸く(はやく)喜んでもらって優雅にということで「逸喜優」という当て字にしたとのこと。…

その三十七 「鮨よしたけ」

吉武正博氏は高校卒業後に「寿司田」に入社し、銀座「写楽」で修業を始めた。その後「寿司田」グループのいくつかを回り、ニューヨーク店に移動、帰国後は東陽町のすし割烹や六本木にあったベルファーレ内の「香花」に勤め、2004年、六本木七丁目に「すし吉…

その三十六 「寿司田」

「寿司田」は1951年に経営の佐田勉氏が飯田橋に創業した「房乃寿司」に始まる。その後1955年、日本橋茅場町に「寿司田」を開業、その時の板長は「三長会」の佐藤清一氏であった。現在の代表取締役社長は佐田都史夫氏で「寿司田」の他、「乾山」「写楽」「古…

その三十五 「小笹寿し」

「小笹寿し」は寿平八郎氏が1950年に新橋に創業したのが始まりで、「浅草けぬきずし」で三代目親方であった藤村宗次郎氏が、初代の板長となった。1954年には、銀座8丁目の現在地に移転する。当時の「小笹寿し」にいたのが岡田周三氏である。その後、1968年…

その三十四 「海味」

青山「海味」の初代は大滝氏と言い、その後の二代目の長野充靖氏が親方として一つの時代を築いた。その長野充靖氏が2015年に急逝し、後を継いだのが中村龍次郎氏である。中村龍次郎氏は金沢「葵寿し」(閉店)で修業を始め、銀座「萩わら」などを経て2014年…