臨時その一 すしのテイクアウト・お持ち帰り

〜すしのテイクアウト・お持ち帰り〜 (追記 2020年5月19日、22日、26日、31日、6月2日、12日、7月8日、8月2日、12月8日、2021年1月3日) 「鮨あお」 (その八 「すきやばし次郎」 - すしの系譜) 鮨あお 店頭受取のご予約 - OMAKASE 「日本橋蛎殻町すぎた」…

その四十 「千八鮨」

築地市場が1935年に移転する前は、本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目あたり)に日本橋魚河岸があった。その日本橋の魚河岸で富岡の八五郎氏が1820年代に始めた「魚河岸卸富八」の七代目にあたる松下進太郎氏が日本橋本町で…

その三十九 「江戸前鮓 すし通」

「逸喜優」の出身者には「江戸前鮓 すし通」の初代藤永大介氏や「鮨太一」の石川太一氏などがいる。 藤永大介氏は1990年に渋谷「三浜鮨」(閉店)で修業を始め、1999年に碑文谷「逸喜優」を経て、2005年に台北の「野壽司」で初代の料理長兼店長を務めた。200…

その三十八 「逸喜優」

細川四郎氏は自由が丘「とよ鮨」(閉店)出身で、1981年頃に碑文谷で「逸喜優(いっきゅう)」を開店した。「いっきゅう」と店名は決めていたが「一休」は平凡なので逸く(はやく)喜んでもらって優雅にということで「逸喜優」という当て字にしたとのこと。…

その三十七 「鮨よしたけ」

吉武正博氏は高校卒業後に「寿司田」に入社し、銀座「写楽」で修業を始めた。その後「寿司田」グループのいくつかを回り、ニューヨーク店に移動、帰国後は東陽町のすし割烹や六本木にあったベルファーレ内の「香花」に勤め、2004年、六本木七丁目に「すし吉…

その三十六 「寿司田」

「寿司田」は1951年に経営の佐田勉氏が飯田橋に創業した「房乃寿司」に始まる。その後1955年、日本橋茅場町に「寿司田」を開業、その時の板長は「三長会」の佐藤清一氏であった。現在の代表取締役社長は佐田都史夫氏で「寿司田」の他、「乾山」「写楽」「古…

その三十五 「小笹寿し」

「小笹寿し」は寿平八郎氏が1950年に新橋に創業したのが始まりで、「浅草けぬきずし」で三代目親方であった藤村宗次郎氏が、初代の板長となった。1954年には、銀座8丁目の現在地に移転する。当時の「小笹寿し」にいたのが岡田周三氏である。その後、1968年…

その三十四 「海味」

青山「海味」の初代は大滝氏と言い、その後の二代目の長野充靖氏が親方として一つの時代を築いた。その長野充靖氏が2015年に急逝し、後を継いだのが中村龍次郎氏である。中村龍次郎氏は金沢「葵寿し」(閉店)で修業を始め、銀座「萩わら」などを経て2014年…

その三十三 「三谷」

四谷「三谷」の三谷康彦氏は「鮨魯山伊勢丹新宿本店」の出身。2006年に独立し、今では予約困難店の一つ。2016年には系列の「紀尾井町三谷」を出店し、現在は総店長として高野博幸氏が務める。 その「紀尾井町三谷」出身の加藤聡氏が六本木一丁目に「桜坂加と…

その三十二 「築地寿司清」

創業明治22年(1889年)の「築地寿司清」は「築地寿司清築地本店」を初めとして全国に30店舗あまりを経営しており、「築地寿司清」の他に「鮨魯山」「すし魚寿」「鮨竹山」などを展開している。 「鮨魯山」の出身には「三谷」の三谷康彦氏、「鮨臥龍」の安達…

その三十一 「鮨なんば」

難波英史氏は都内のすし店に勤めた後、2006年に32歳で独立して荻窪「鮨なんば」を創業し、その後、2011年に阿佐ヶ谷に場所を移した。2018年には日比谷ミッドタウンの開業にともない阿佐ヶ谷の店を二番手の高岡俊輔氏に託し、「鮨なんば日比谷」を開く。シャ…

番外編その一 「現存する老舗江戸前すしの店」

少し前まで「現存する最古の江戸前すし」の店として知られていた銀座「すし栄」は、嘉永元年(1848年)に神田旅籠町に創業したのが始まりで、初代は倉田栄蔵氏。二代目は倉田金太郎氏。三代目の倉田華太郎氏は明治29年(1896年)生まれで、倉田華太郎氏の時…

その三十 「日本橋蛎殻町すぎた」

「東日本橋都寿司」は日本橋蛎殻町「都寿司」の弟子が独立した店だが、2代続いて廃業となり、その後を引き継いだのが杉田孝明氏である。「日本橋橘町都寿司」を屋号として2004年にオープンした。2015年に場所を移して「日本橋蛎殻町すぎた」となり現在に至…

その二十九 「都寿司」

日本橋蛎殻町「都寿司」は明治20年(1887年)創業の老舗。初代は山縣太三吉氏で以前からすし店を営んでいたが、その詳細はわからず、明治20年創業としたとのこと。二代目は山縣浅七氏。三代目山縣曻太郎氏が山縣正氏の父で、第二次世界大戦後は自転車修理業…

その二十八 「青柳」

「寿し屋の勘八」はすし職人の修業の場でもあり、系列店も多数あるが独立開業する職人も多い。「寿し屋の○○」「勘○」「○勘」などの店名は「寿し屋の勘八」出身者が多い。たとえば「すし屋の勘六」「すし屋の野八」「すし屋の芳勘」など。 「すし屋の野八」の…

その二十七 「あら輝」

「寿司いずみ」出身の荒木水都弘氏は2000年に上野毛「あら輝」として独立した。独立前には「きよ田」の二代目新津武昭氏に師事した。新津武昭氏は「きよ田」がまだ六本木にあった頃に藤本繁蔵氏のもとで働いており、その頃の「きよ田」には藤本繁蔵氏、清水…

その二十六 「寿司いずみ」

「寿司いずみ」の佐藤勇氏は「寿し屋の勘八」出身。佐藤勇氏は1926年の生まれで1936年に日本橋の鮨屋「弁富」に年季奉公に入った。終戦後の1945年に日本橋から暖簾分けした築地「弁富」に入る。その後は都内のすし屋を10年程度かけて多数回り「銀座勘八」の…

その二十五 「寿し屋の勘八」

「寿し屋の勘八」の創業は1953年で、創業者はすしの職人ではなく経営専門の中村孝行氏と言う人で、現在の代表者は中村達氏。初代の親方は飯沼春吉氏と言い「三長会」に属する優れた職人であった。銀座7丁目に創業し、その頃には「喜久好」(閉店)の清水喜…

その二十四 「新ばし しみず」

石丸久尊氏の弟子として「新橋鶴八」で修業したのが清水邦浩氏で、1999年に新橋に「鮨処しみず」として開業した。現在は場所を移して「新ばししみづ」となっている。 清水邦浩氏の弟子としては「鮨まつもと」の松本大典氏が独立して、2005年に京都に店を開い…

その二十三 「鶴八」

師岡幸夫氏は1930年に東京神田紺屋町ですし職人の息子として生まれ、19歳で柳橋「美家古鮨本店」で握りの神様と称された加藤博章氏のもとで修業し、1959年に神田「鶴八」として独立した。師岡幸夫氏の弟子の田島道弘氏は、神田「鶴八」で修業し、一度は栃木…

その二十二 「美家古鮨本店」

「弁天山美家古寿司」で修業した加藤博章氏が第二次世界大戦前に柳橋に開業。加藤博章氏が徴兵されたために店を閉めるが、戦後に復員した後に出前専門の形で再開し、その後1950年に「美家古鮨本店」として店舗を構えた。その頃の経緯は「神田鶴八鮨ばなし」…

その二十一 「弁天山美家古寿司」

「與兵衛鮨」の流れを汲むとされる千住「みやこ」が創業したのが1848年頃。千住「みやこ」はすでに閉店しているが、「みやこ」で修業した伊藤久助氏が1866年に創業したとされるのが浅草「弁天山みやこ寿司」である。二代目が内田金七氏とされる。(「弁天山…

その二十 「すし処宮葉」

「すし処宮葉」の宮葉幹男氏は「與兵衛鮨」の流れを汲むとされる江戸時代よりすし屋を営む老舗(詳細は不明)に生まれ、京橋「幸鮨」の七代目の元で修業をした。「幸鮨」の八代目となるが「幸鮨」は閉店。その後、全国各地の名店で修業し、1989年に浜松町に…

その十九 「道玄坂亀寿司」

もう一人「與兵衛鮨」の流れを汲むのが四代目小泉喜太郎の弟子、青島熊一氏である。明治43年(1910年)生まれで「與兵衛鮨」が閉店する直前の大正12年(1923年)から「與兵衛鮨」で修業した。その後「道玄坂亀寿司(鮨)」を開店したが、現在には至らず。 そ…

その十八 「㐂寿司」

「與兵衛鮨」四代目小泉喜太郎の弟子にあたるのが、明治の終わり頃、柳橋の薬研堀に「㐂寿司」を創業した油井㐂太郎氏である。(油井㐂太郎氏は「與兵衛鮨」の支店、馬喰町「すし忠」で修業したとの話あり。)1923年に息子の油井貫一氏が人形町に店を出して…

その十七 「吉野鮨本店」

「與兵衛鮨」三代目小泉菊太郎の弟子で四代目小泉喜太郎の兄弟弟子にあたるのが「吉野鮨本店」の初代吉野政吉氏で1879年に日本橋「吉野鮨」を創業した。二代目は吉野正三郎氏で、その時の「吉野鮨」がトロの握りの発祥と言われている。 「鮓・鮨・すし―すし…

その十六 「與兵衛鮨」

江戸前ずしの発祥については多くの書籍に記載されているためここでは触れないが、「與兵衛鮨」の初代華屋與兵衛(花屋與兵衛が正しいとの説あり)が江戸前ずしの成立に少なからず関与していたことに違いはない。その「與兵衛鮨」は1810年頃、両国に始まり、…

その十五 「鮨青木」

「鮨青木」の初代、青木義(よし)氏は「奈可田(なか田)」の出身で、「なか田」修業後の1972年に京都木屋町「なか田」の主人となる。東京へ戻り、麹町に「鮨青木」として店を開いたのが1986年、そして銀座に戻ってきたのが1992年のことであった。銀座に店…

その十四 「奈可久」

銀座「なか田」の初代中田一男氏に師事し「なか田」で修業した鈴木隆久氏が六本木に店を開いたのは1979年、26歳の時のこと。最初はテレ朝通りに面したビルの2階であった。外苑東通り沿いに移転して現在に至る。 弟子には銀座「奈可久」(閉店)の齊藤信雄氏…

その十三 「奈可田」

二葉鮨四天王の一人、中田一男氏は1950年に銀座に店を構え、途中、移転とともに「なか田」から「奈可田」と店名を変更。カウンターの氷柱は有名。中田一男氏の没後はご子息が店舗を引き継ぐが、2015年に銀座店を閉店し、現在は帝国ホテル内に「江戸前鮨なか…